2009-01

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死刑とはなんだろうか 8 不思議じゃないかな

防犯つまり犯罪の抑止効果を目的として死刑があるという。けれども、その先には人を殺してはいけないという大前提があり、それに付随することとして、殺意の否定というものがあるんだと思う。
つまり、人を殺してはいけない、殺意をもってはならないということが原則なのである。
しかし、死刑とは被害者家族に対して過剰なまでの殺意をもたらす。対象は加害者であるのだけれども、被害者家族は殺意をもつ。ここで、論理が破綻する。殺意を持ってはいけないはずなのに最高刑として死刑があり、応報感情として最高刑を望んだ場合には結局は対象を殺すことを望むようになる。

不思議な話である。。
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世界破滅の予言

oumu03.jpg


「世界没落体験」という言葉がある。この言葉は精神科の教科書などの統合失調症の項目の中に書かれている。統合失調症において世界が一夜にして崩壊してしまうような大災害や戦争などがおきるという妄想をもちやすいということが解説してあるのだけれども、これは統合失調症のみならず、一般の健常者においてもおこりうる妄想だといってもいい。統合失調症の場合と健常者の場合においては、その妄想の量と質はおおきくことなり統合失調症においては長期間、妄想にとりつかれるが、健常者のばあいにおいては一時的なものである。
生きるというストレスは誰にでもあることだし、その不安がなんらかの妄想になってしまう場合もある。また、聖書にでてくる預言者のごとく逆にこうした妄想が社会の誤りを是正する場合もある。社会動物人間がもっている群に対しての警告本能、それが世界没落妄想の機序というものだといってもいいのではないだろうかと個人的に所感している。

ノストラダムスの予言や他の多くの予言があり、多くの占いがあり、多くの人がそうしたものを好んで読んでいることからも、こうしたものを人間は持っているということにほかならないだろう。

こうした人間の本能に近いものを利用し、絶えずその思いを繰りかえさせていくと統合失調様の集団が生まれる。世の中の多くのカルトが世界没落を繰り返し信者の頭に植え付け、犯罪行為に走らせた。「世界が滅びるのだから罪に裁かれる自分より多くの人を救いたい」
「小さな犠牲ならば多くの犠牲を払うよりもましだ」「一緒に死んでしまおう」などなどと思いながら罪を犯す。

しかし、こうした罪を働いた人々は統合失調症の類に属する精神疾患に罹患しているという診断はくだらないだろう。おおむねの人が健常者として診断を受けるものと思われる。
オウム関連団体を脱会した元幹部に聞いた話であるけれど、彼は脱会後にチベットの密教僧に瞑想の仕方などを習ったけれども、それはオウムで教えていたものとはまったく異なるものだったようである。つまり、密教の名前を騙りながら、オウム真理教という団体は多くの妄想を身体と肉体に植え付けることを優先していた。また、松本死刑囚の妄想(詐欺の手段として利用したのか本当にそういう妄想を見ていたのかはここでは断定しない)を共有することを優先していた。

つまり、構成員の精神は健常であるが、コミュニティが統合失調様になっていたということである。そして信徒である人々は、そうしたコミュニティにおけるローカルルールに従順に従った、

反社会的な要素を持った統合失調状態のコミュニティの法に健常者がまじめにむかいあい、それを実践しようとした。(誤解がないように付記しておくけれど、統合失調症の人の多くは凶暴な反社会性をもっていない)

それがオウム真理教のすがたであったのだろうと思う。

死刑となんだろうか 7 神隠し事件より

hamlet0.jpg

画像は舞台ハムレットより

自分の性的な妄想から被害者をさらい、そのうで殺し、便所にばらばらにして流してしまうという事件の公判が進んでいる。ワイドショーなどで連日のように報道されているので、ご存知の方も多いかと思うが。人を殺した人間とは思えないほどに加害者は反省しているという話があちらこちらから聞かれる。

子供のころに負ったやけどからコンプレックスを持ち、自分はまともな方法では女性と交際できないと思い込んでいた。それくらいのことでコンプレックスを持ち人殺しに及んでしまうというのはあまりにも安直であり、同種の問題に大して明るく立ち向かっている火t人から比べると甘ったれもほどほどにしてほしいと思うのであるけれど、こうした事件も、やはり身の丈コミュニティのロストが大きな原因になっているのではないだろうかと個人的には所感している。

強い反省にいたっている。これは現状では確認せきないことだから、風聞に仮説の根拠をもとめることになり、非常に精度の低い話であることをまずは断っておく。

被害者のご遺体をばらばらにして便所に流す。そこまでして、罪に問われることを逃れようとしていた人間が、いまになってどうして、その罪を認めて、自らの死を望むようになったのだろうか。

報道によると、なによりも体面を重んじる人間だったようである。タクシーに乗ってもつりは受け取らず、逮捕前に被害者のご家族とすれちがっても「僕にできることがあればなんでもおっしゃってください」というようなことを言う人間である。被告の心情経過を分析する上において、彼のご遺族の方に語ったとされるこの言葉は彼の傾向を知る上でも重要な言葉だ。

おそらく、この言葉は彼の中では願望としても語られていたものである可能性が高い。自分が犯した罪であることは本人は十二分に認知していることなのであるけれども、自分の外面の部分が自分は犯人ではないという訴求をおこし、目の前でおこなわれる事件において、解決やご遺族の心を慰める主人公を演じたかったのであろう、逮捕当初尋問において確固たる掌紋という仏性を見せられるまで、激しく自分の反抗ではないと警察などに激しく抗議したようである。この時点においても彼は自分をなんらかの演劇の中心人物を演じようとしていた。

彼の目前で流れる事象、そのすべては幻影のようなものであり、自分は演じる人間として舞台にたっている感覚もあったのであろう。もちろん、底流には自分が捕まりたくないというエゴイスティックな心象に基づいているのは間違いない。

強姦して、性的な奴隷にして、自分の恋人にする。幼児性まるだしの犯罪である。この計画こそ、彼の体面の裏側に潜む衝動である。こうした性的な奴隷というようなものを空想することは性徴期に妄想することは男性にはよくあることなのだけれど、そうしたものは、成長し、多く恩人とのかかわりの中で昇華していき、現実的なものにおちついていくものである。ところが、彼はそうはならなかった。ただ、こうした妄想を膨らましていき、現実世界を妄想で侵犯させてしまった。

多くの男性は、こうした衝動をもちながらも、それを現実の領域で実行することはない。
友人たちとつまらないエロ話に興じたりしながら、妄想をふくらますけれども、実際に好意を寄せる女性がでてきて、そうした女性とどうにかして交際しようと努力する。そのなかで自分の気持ちや相手の気持ちを照らし合わせながら現実の交際に発展していく。

ところが、この被告はいきなり性奴隷なのである。いや、いきなりではない、思春期からそだててきて、現実を審判する衝動にまでしてしまったのではないか。

身の回りに馬鹿話として、こうした妄想を話す相手がいなかった。妄想とは衝動の引き金となるものであり、行動を定義づける仮想実験を担っている部分だといっていいだろう。この仮想実験が検証されることなく一人歩きを始めると衝動などの行動領域に影響を与えてしまう。この成長のための仮想実験であるものを検証するのが身の回りにあるコミュニティである。

彼にはそうしたものがなかった。外面的に付き合う人間はいたのであろうけれど、彼の妄想の中に立ち入ってまで来る人間はいなかったのだろう。唯一踏み込めたのは彼を尋問した警官であろう。

こうした犯罪を犯した人間が警官に真実をつきつけられ自分の妄想を語り、自供にいたるという例がおおくいるが、そのほとんどが身の回りコミュニティがなんらかの原因で損壊している人間が多いように思う。

その罪を自覚したのも現実世界からの彼の心象世界に立ち入ることができたからであろう。結果、彼は大きな反省を持つにいたっている(報道のみの情報による仮設)


犯人が死刑を望む、検察も死刑を望む、そして被害者も死刑を望む。星嶋被告に関しては遺族や加害者という当事者が死刑を望んでいるという不思議な状態になっている。だったら、死刑にしてもいいのじゃないかなというのが世論になるのだろう。

しかし、応報を目的とするならば、加害者は自分の望まない状態に置かれることによって、その罪が昇華されることになるはずである。ところが、この加害者は死刑になることを望んでいるのである。自らの命を低いものとして、そのうえでそれとバーターする形で被害者のなくなった命と引き換えにしようというスキムになる。

ここでは被害者の命と加害者の命がイコールで関連付けられる等式がおかれるということに注目しなければならないだろう。そのうえで、加害者に関しては死を望んでいる、被害者は望みもしなかったのにもかかわらず殺されたという加重が考慮されていないのではないか。

もともと、死刑によって応報がかなうかどうかなどということは考えるだけ無駄なことであるようにも思える。

black berry bold (2)iphoneにかんして

改善される可能性も残されているということでソフト面からとらえると、iphoneには以下の二点の問題点がある。(ハックすれば使える)
1 ネットアプリなどを使わない限り、内部テキストなどをIphone自身に保存できない。ネットアプリを優先させるのは時代を十分に先取りしているものだとおもわれるが。仮の作業エリアとして本体を利用できないというのは不便だと言わざるを得ない。

2コピーアンドペーストなどの文章編集における基本的な機能を持ち合わせていない。

以上二点をみればiphoneはパソコンを利用することを前提にしたものであるということが分かると思う。あくまでも読むためのガジェットであり、こちらからなんらかの編集を加えることは不可に近い状況にある。プッシュとコンピューターからの持ち出しを目的とした、エンタメ型のガジェットであるといってもいいだろう。また、このパソコンとの連関に関してはマイクロSDなどの外部記憶メディアが利用できないようにするなど徹底したものである。

ハード的にとらえると、入力機能が非常に貧弱であるということがあげられると思う。フルキーボード付きのスマートフォンを一度でも仕事に使ったことのある人間ならば、この入力の不便さにはイライラしてしまう可能性が非常に高い。

iphoneを持っている人と話すとき、ポメラのような入力専門のガジェットに話が及ぶことが多い。また、実際に購入されている人も少なくないようである。つまり、iphoneで入力できない、だから、こうしたガジェットを副次的にもたなければならいという必然が生じてしまっているようである。もちろん、こうしたものはアップルがサードパーティーに積極的にコードを公開してキーボードなどの開発を推奨すればよいことなのだけれど・・・。どういうわけか現状では、そういった動きは見えない。また、副次的に外部のキーボードを持つことになっても、それは多くのスマートフォンのようにキーボードを当たり前のように組み込んであるものとは利便性が異なるというのはあたりまえである。

通信手段、つまりiphoneはコミュニケーションを演じるためにガジェットではなくエンタメのためのものだといってもいいのだろうと思う。確かにアプリの中にはネットワークを意識したものはあるにはある。しかし、それはこのガジェットの目的の中核をなすものではないといってもいいだろう。

black berry bold

近々僕は新しいコミュニティのデザインを依頼されて、そこの相談役になるようだ・・・
どういう仕事なのかはここには書かないけれど、コミュニケーション速度と精度を必要とするコミュニティになると思う。

そこでは積極的にサーバーと端末を利用していこうと考えている。。
その候補機がblackberry boldである。

以下の動画はboldをモデム端末として利用しているレポート動画





以下はレビュー

ネコ語ではなんというのだろうか

関西では「坊さんが屁をこいた」
関東では「だるまさんが転んだ」

では、ネコ語ではなんというのだろうか????

猫のエレベーター

信頼関係のある主人とペットだ!!


金融崩壊 メモ

アメリカは歴史の中で二度の対外債務デフォルトをおこなっている。
そして、最終的には国外債務を国内債務に変換することに成功もしている。

いまはインフルエンザでしんどいので、これ以上は病気が治ってから描くことにしよう。

EWF netbook等のモバイル機の利用に関しての効用

Enhanced Write Filter
通称EWFと呼ばれるアプリケーションがある。モバイルPCなどに組み込まれることが多いものであるが、本来はレジなどの組み込み用XPの機能の一つである。無作為にデーターが記憶媒体に記憶されないようにする機能を持つ。色々なモードがあるのだけれども、モバイルユーザーがつかっているのはドライブに書き込ませずに一端メモリー上に書き込み操作者が意図したときのみにメモリーから記憶装置に変更等の書き込みを行うものである。こうした機能は再起動さえすれば、確実に前の状態に戻ることができる。また、副次的にメモリー内で変更や書き込みがおこなわれるために速度の大きな改善が望める。

こうした機能をもっているためにEWFの導入は速度が遅い場合には非常に有効な手段となる。そのため少し古めのノートブックユーザーやネットブックユーザーなどでも導入している人が多い。(世間一般から言うと非常に詳しい人たちということになるけれど)

また、このEWFには昨今増えてきた、公衆無線LANや高速通信接続の恩恵を受けている各種のネットワークサービスにおいても有効な側面がある。

モバイル環境の最大の問題点は自宅や会社にあるPCとどのように同期をするのかであるけれど、その同期がうまくいってもモバイル機器の亡失や他人の無断使用による情報漏えいなどのデメリットというものが出てくる。こうした問題に関してはネットストレージなどを利用するのがもっともこのましいのだけれども、エクセルのワークシートの編集や打ち込み報告書の作成などの作業そのものはモバイルPCでおこなわなければならない。
そのようなシュチエーションにおいてEWFは非常に強みを発揮する。

EWFを使った場合にはこうなる

1ネットストレージにパスワードとログイン名でログインする
2必要なファイルをダウンロードする。(デスクトップにドラッグアンドドロップをするけれども、実際にはメモリー上に配置されているだけで実際にはドライブに書き込まれていない)
3必要なファイルをモバイル端末で編集をする。
4ネットストレージにあるファイルに編集したファイルを上書きする
5モバイルパソコンを再起動する
6モバイルパソコンのどこにも編集されたファイルは存在しない

作業などが長時間にわたる場合やオフライン利用をどうしてもしなくてはならないというような状況においては、メモリーからドライブに書き込むことも可能である(メモリースティックなどに移動してモバイルパソコンなどに残さないほうがいいだろう)

基本的に情報漏えいの可能性の高いモバイルパソコンにはプログラムなどのみをおいておき、データーはおかないほうがいいだろう。これは情報漏えいに限ったことではない、モバイル環境という環境はパソコンの破損の可能性が非常に高く、破損した場合にはデーターそのものが消えてしまう可能性が非常に高い。そうしたリスクを軽減するためにもモバイルパソコンの中にはなにも残さないほういいだろうと思う。

まぁ、おまけのようなものだけれど、得体の知れない再起動が生じないアプリケーションなどを実験的に使うときにもいいだろう。気に入らない、あるいは不具合が生じれば、ドライブに書き込まずにそのまま再起動すれば、前の状態に戻ってくれる。
これはwindows機の最大の利点では歩けれど、いつの段階での起動を正しい起動と判断していいのかわからないwindowsの回復機能を使うよりも確実であるし、作業時間も非常に短くてすむ。

派遣労働者問題 コミュニティ

派遣社員に関して、彼らは職を選びすぎだという主張とかわいそうだからという主張が入り乱れていますが・・・
同情と蔑みというものはよく似た情感ですから、いわゆるアンビバレンツな状態(二つの情動を併せ持つ)になりやすいんだと思います。このどちらか一方あるいは両方ともが社会的な表出をおこなうときは、表出する社会環境に所以するものだと思います。

γというαとβで構成された情動をもったAという人物がいた場合。

Aという人物はBという環境にいるときCというαよりの発言をする。しかしAという人物がDという環境にいるときはEというβよりの発言を行う。

ケインズが予言した分解された個人表意の時代になり、以前のように家族や地域コミュニティなどを通じて収斂されていた意見が上位コミュニティに溯上しなくなりダイレクトにつながってしまっている。社会動物であるという前提のもと人間などというものはアンビバレンツな状態でなければ生きていけない生き物であり、そのアンビバレンツさを補うのがコミュニティの役割だと思うんですよね。ところが、アンビバレンツな状態でその場だけの環境に依存してしまい安易な発言をしてしまう。また、その安易な発言に対して同調するものも増えてくるように見える。しかし、、それはもともとアンビバレンツなαとβが混在した状態であるにしかすぎないんだと思いますよ。この状態が政治闘争にも見えてしまう。

より高度な環境ストレスを与えるとこうしたアンビバレンツな状態は選択肢というものにも分岐してくるのでしょうけれど、現状ではそこまでいっていない。

生物学の基礎にあることばですけど、餌の選択に迷うねずみにはストレスを与えろってのが、あります。現状でこうした状態にはないってことじゃないでしょうか。

アンビバレンツでも良かったというのが個人がコミュニティに属していた状況だと思うんですよ。それは家族だったり友人関係だったりする。それを累蓄したものが文学としても成立する。ジョイスの視点などはより上位のコミュニティから身の丈大のコミュニティに社会環境が降下してきて、個人や身の回りの人々により大きなコミュニティがどのような影響を与えているかということを見事に書ききっていると思うんですよね(ジョイスの本に出てくる食べ物の話は非常にそういうところを表している)ところがグローバリズムの市場開拓によって個人にまで細分化されてしまった。ゆえにダイレクトな自己責任を求められてしまっている。家族コミュニティにはもちろん強度の父権主義などの害もあったのだけれど、個人が社会に直接的に晒されないという旨みがあると思うのですが、それがスポイルされようとしている。もちろん自己責任などが問われると必然として自分のネガティブなども社会に還元してしまうというか、社会への応報感情として成熟されてしまう可能性が高い。それが秋葉事件などのようなものだったんだと思います。

基本的に多くのコミュニティを内に含む上位コミュニティは個人がさらされるのにはあまりにも負担が大きい。ゆえに至近で所属するコミュニティは、より上位コミュニティが求める事項を集団で対処する。至近で身の丈大のコミュニティにはそういう役割がある。つまり、身の丈コミュニティがアンビバレンツな状態の個人を容認する。もっといえば自由を保障するといってもいいでしょう。

ここでオウムの例をひきあいにだしますが、結果としては詐欺として終了してしまったのだけれども、松本死刑囚の思惑とは別にオウムに入れば自分たちの自由(修行をすることもふくめてね)があると入信した人々は考えた。また、そこを通じて社会の刷新ができるのではないかという気持ちをもっていたのではないでしょうか。

ところが、このオウム真理教という団体は、多くの場合は松本死刑囚の犯罪性において、より上位のコミュニティとの接続を強く拒んだ。つまり、構成員の自由を保障するコミュニティではなかったということに他ならなかった。

個人は個人が自由であるためには所属するコミュニティが自分に代わって社会的な責任を果たすような存在になるように努めなければならない。この責任が本来の自己責任というものでしょうし、モンテーニュの主張する個人主義における責任論になるのでしょう。

グローバリズムと期間労働者 そしてそれを非難する者

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生存にかかわる精神作用が、社会性や反社会性というものを形成するのでしょう。その精神作用を構築する場所として新皮質と旧皮質になる。機能的に見てコミュニティに所属したいという意識は、いかに群れを大きくするかという種の保存に直結した問題になります。群れをより大きくしたければ、生体進化の面でみれば、多産であることが最も有利です。ところが、人間自身は乳房の数に限定されるように余程幸運がもたらされない限り、二人以上の子孫を持つことはできない。また、人の子供は育てるのに非常に手間と時間がかかる生物です。ある意味、こうした進化と種の保存の上でハンディともなる事柄を補うために新皮質側に群れを大きくするという集団生活傾向が生まれました。つまり、より多くの人間たちと共生することにより、生体機能以外の部分で「多産でない」「子供の育成に時間がかかる」という機能を獲得することになりました。言葉を換えれば、群れを組むという精神作用を獲得することにより、通常ならば数万年から数十万年はかかるだろう生体進化に依存することなく、進化を獲得することができたといっても過言じゃないでしょう。
ここで五万年ほど前にさかのぼります。
約六万年ほど前までは、一か所の洞穴などのシェルターに住んでいた人類は、群れの拡大とそして副次的に自然災害の影響により絶滅の危機に瀕します。数百万の個体から数千個体(二千ほどまでに激減したという説もある)ここで居住地店の拡散という出来事が起きます。この群れの拡大は遺伝学的な脅威、つまり、近親間交配やマスギャザリンをおこしたためのウィルス性疾患に対しての脆弱性を示したということに他ならないでしょう。本来ならば、そのまま滅びてもおかしくなかったし、他の動物のように赤の女王仮説(ウィルスやその他の伝染性疾患に対抗するための生体進化)上の生体進化をまって、それを乗り越えるのでしょうが、性急な人間は、それを回避するために一か所に住んでいた人類が家族単位で住み始めることになります。この原始人類の家族化が人類を広域に住まわせることになります。また、ネアンデルタールのように単に群れを分散させただけではなく、家族間を往来し交流することになります。食糧や道具の交換、そして交配者の交換(つまり結婚ですね)

ここで二つのコミュニティが派生します。
家族と多くの家族を含む社会という二種のコミュニティです。
それぞれの家族は住む地域特性によって、それぞれのルールが存在します。水場の維持や食料採取のためのローカルルールです。また、同時に家族間同士におい、それぞれの家族がお互いに生き抜くために収れんしてきたルールというものもあります。そのルール自身はお互いの共通した法のようなものとして交流する家族間の間に流通する。これがワイドルールです。このワイドルールをもってして、同心円を延長するように人類は拡大していった。

ここで気づく方もおられるでしょうけれど、ここで三つのルールが存在することになります。
まずはワイドルール、そして家族などのローカルールール、そして自身という個体を優先する本能。
豊かな時代や豊かな土地に住む場合は、自身のより多く食べたい、より楽をしたいという本能は上位に組み上げられ、ローカルルールやワイドルールに組み上げられていく、しかしながら、貧しさや、その訴求が破壊的なものであると、組み上げられない。それ以上に平等な分配を求める声の方がおおきくなり、そうした訴求をおこなうものは排除されることになります。

現在の期間労働者問題において、自己責任という言葉がことさら強く聞こえますが、これは分配者に対しての公平な分配を求める声だといってもいいでしょう。貧しさをより強く感じなければならない環境にある人がおおければ、その声は大きくなってくる。これは原始も現代もそうかわらない。同時に着目しなければならないこととして、こうした排除的な言動を使う人々は特に貧しいほうの側にある人ではない。こうした意見はネットで散見することが多く、家にパソコン等があり、そうした文章を書く余裕がある人がほとんどであると思われます。路傍で寝なければならない人と比べるとはるかにましだといってもいいのは間違いないでしょう。しかし、彼らは路傍で寝なければならない人たちを揶揄して公平を口にしなければならない。それはどうしてか・・・。継続的な論考が必要な事項ですが、ここで一応の作業仮説をたてておくと、「彼ら自身に自身が貧しいと認識させる価値観がある」可能性が非常に高い。

まぁそれがグローバリズムだというものだと個人的には思います。このグローバリズムの無制限な経済成長が可能だと見せてしまう価値観は時として人に過大な評価主義をもつに至らせる故に底辺決定をもしたがる。これらの人はグローバリズムにおいてその立場は別として心理的なストレスを受けている可能性が非常に高い。

仕事は探せばいくらでもある。たしかにそうでしょうね。選らばなければあるでしょう。しかし、力仕事ができない体をもっている人が力仕事ができるでしょうか。お金の管理が苦手な人がコンビニのレジを打つことができるでしょうか。期間労働者、もっとひろげればホームレスの人たちも含めてできないことがあるから、そういうふうに至ったという経緯がごっそりとぬけてしまい非難の対象になってしまっている。おそらくそういう状況をわが身のこととして考えられるならば、そうかもしれないということがわかるのかもしれないけれど、これから社会に出てグローバリズム的な貧しさを味わうかもしれないネット上の非難者や、すでに味わっている非難者は自分のことしか見えていない。自分と同じ見解を持つ人間しかみえていない。

匿名社会というものは本来ならばコミュニティの誤りを正すために大きな役割を担うべきものだったのでしょうが、容易に同種の意見が発見できる利便性のために不必要な加速性をもってしまい増殖もする。目の前で「でもね」という実コミュニケーションが抜け落ちてしまい衝突のない言論が初期において形成されやすくなってしまっている。今回の件に関しては社会での評価において自己が底辺になることを避けたいという恐怖心に所以するところが大きいようにも見えますね。国家をはじめとしたコミュニティは、多様性と他との連結性がもっとも重要なものとなります。この連結性そこなわれると反社会的な要素が高くなり排除則が強くなる。もちろん、他者の窮状を救うことに関して非難を繰り返すコミュニティは匿名であるがゆえに一過性のコミュニティであり、非難に特化された一過性の自閉コミュニティといっても、いいでしょう。

そのような種にとって不必要なコミュニティを作りだしてもしまうグローバリズムとは一体なんだってことになるとおもうけれども、行き詰った資本主義が販路を求めて、それまでの消費の単位であった核家族(この核家族自身も資本主義のつくりだしたもの)をより細分化し、その単位を個人消費にまでおいやるための動機付けと考えるとすっきりとすると思う。
販路の拡大、マーケットの拡大といっても限度があるというのは当たり前のことだ、たとえばマーケットを大きくしたいとおもい、ある商品を売るにしても、それが年収二万ドルを平均とする国家に売れるものが、平均年収千ドルに満たない国家に売れるはずもない。また、そうした製品を作るようになっても、利益率は非常に低いものになってしまう。だったらどうするか、自然と年収二万ドルに対して過剰な消費を強いるほうが特だということになる。
そのためにはどうするか、個人の欲望がローカルルールを上回るように仕向ける。個人の消費願望をワイド側から、強くさせるようなルールを形成してしまう。
その結果として周りを見渡すとよくわかることだとおもうけれども、家族や地域のコミュニティが瀕死の状態になってしまった。
個人の消費を否定するつもりはないけれど、過剰な消費を個人が行う。つまり市場拡大がいきづまりコミュニティの分解にまでいたってしまった。そのために目前から身の丈の大きさの所属するコミュニティが消えうせてしまっている。
本来責任というものは個人が自身に対して持つものではなかった。身の丈大のコミュニティの中でお互いにお互いがもちあうものであったはずである。ところがそういう場所に身を寄せることが非常に難しくなってしまった。また、身近にいるからこそ許しあえた個性というものも、許されなくなってきている。このままいけば大きな単位のワイドグループと個人が存在することにもなりかねないし、その結果、個性を所有することを許されないという心理的な圧迫もでてくる。そのためにネットなどにそのはけ口をもとめる。

こうしたワイドグループと個人とのみが存在する関係はスォーム・セットセオリー(群虫理論)に限りなく近似する。イナゴなどが群生しつつ移動するときに本来ならば数多くの交配が存在し、多くの種が生まれてもおかしくないのだけれども、群で移動することに特化されてしまい、群で移動するのに不具合な形状を獲得してしまったイナゴは淘汰されてしまうことになる。そして、群自身も凶暴化し、同じものを食い、自分たちの食料を食いつくし、飢餓状態にいたり滅びるまで群を巨大化してしまう。本来ならば種の多様性を獲得してひとつのものを食い荒らすさずにすんだものが、自然のいたずらで時として暴走を引き起こしてしまう。

ところが、人間という種はここ数世紀において、それを好んでやっていた節が見受けられる。

AVビデオ

パッケージだけを見て、借りてはいけないこれだけの理由

経済崩壊

サブプライムなどというものは現象の一端であるにしかすぎないだろう。根本的にアメリカの経常収支が巨大な赤字になっていることに問題がある。いやな事に目をつぶり、なんとなくよさそうな事に目を向けるのは人間ならば誰にもある性向であるけれども、この度合いがアメリカはひどすぎたのであろう。投資機会を増やしてやることによって国外の資金を国内に流しいれる。その結果として国民は豊かな生活を享受できる。一面それはただしいのであるし、世界の黒字の70パーセントもがアメリカに流れ込んでいたのも事実だった。多くの投資機会を与えることによって国を富ませるという発想は、ドバイのようなところやアイスランドでも試みられた。しかし、どうだろうか、その結果がこうである。
本来ならば経常収支が黒字になれば、黒字になり、自国通貨が高くなったばあいには、それぞれの国では他国から多くのものを輸入して豊かな生活を行う。しかし、自国通貨を使うことによる通貨安の恐怖感から、投資にしか走れない国がある。そういった国々が日本や中国でありEU諸国でもあった、そして、その投資先がアメリカだったのである。これらの国々が世界でもっとも巨大なマーケットをもつアメリカという国の経常収支の赤字補填に稼いだ金をせっせと貢ぎ上げたていた。

自国に投資や消費の機会が少なかった。というようりも、経済界と政府がそうさせなかったというのが、大きな原因である。あれほどの後始末を国民の税金を使っておこなった銀行はどうだろうか、税金をあれほどまでに下げてやり、その分を国民につけまわししてやった大企業はどうだろうか。彼らは収益を上げながら、その富の分配に応ぜず(税金を出せといってるだけである。取り壊しをせよなどとはいっていない)せっせとアメリカへの投資に金を回し続けた。ところがである。個人預金が限りなくゼロに近いようなアメリカという国の経常収支はあまりにも莫大になりすぎた。投資機会を増やすだけではどうにもできないほどに拡大したのである。世界中の金をかき集めてもどうしようもないくらいに巨額な赤字を生んでしまった。一説によると一時期のアメリカでは労働人口の三割近くが投資などの仕事にかかわっていたようである。投資機会があり、世界中からかねがあつまってくるというだけでふくらみ続けたこのとんでもない経済構造は節目を迎えようとしている。こういう風に書くと明日や数年以内にアメリカ経済が死ぬように考える人がいるかもしれないが、ここ一世紀で大転換がおきうるだろうとしか現状ではいえない。いまアメリカに滅びられると世界中が産業の大転換を強いられるだろうし、そのため、いまのところはアメリカを支え続けないといけないうのが実情だと思う。

市街地戦闘始まる

 大量の発煙弾が市街地に打ち込まれている光景が映し出されていた。市街地での野戦部隊の機動を容易にせしめるために大量に利用されているのだろう。これを一部の左翼の皆様は白燐弾などという特殊兵器が存在するかのように主張する。どうしても象徴がいるんだよね。純粋に戦争をやめろといわずに架空の話で恐怖をあおろうとする。この発煙弾による視界遮断作戦はベルリンでも行われた詩、スターリングラードでも行われた。新兵器と呼ぶには少しばかり古すぎる兵器だ。焦点がぼけるばかりでなにも進まなくなることがおおい。

 それにしても四人ほど殺されたイスラエルが数千人を殺すことにもなりかねない市街地戦に打って出るとは・・・・相手の手に乗ったとしか思えない。ヒズボラ側は数年前の市街地戦闘での勝利に酔っているのだろうけれど、これはロシア製のロケット兵器と対戦車ミサイルによるところが多い。しかし、現状のイスラエル軍のトレンドは市街地戦に特化された兵器を多く持つ。あのメルカバ戦車も敵戦車と渡り合うよりも市街地戦闘を効率よく行えるようになってきている。

前回のロシア製の兵器が刷新されていずに過去の勝利の再現(といっても完全に撃破されためるカバ戦車殆どいない)を狙っているならばヒズボラも市民を犠牲にして何を狙っているのかわからん。もちろんイスラエルも今度こそ完膚無きまで叩き潰してやるという腹積もりだろう。

お互いの卑しい思惑がうまくかみ合い、戦争をしたい者同士が市民を巻き沿いにして戦争を始める。

お互いに憎みあっているときに、相手に勝てるとおもったとき、人は人を巻き沿いにしてでも戦争は起こすものだ。

憎みあう根源を取り除こうとせず、小さな勝利という麻薬を打ち続ける。もっといえばこれは戦争中毒といってもよいだろう。

実に愚かな話だ。

森林を守っても二酸化炭素は減らない

森林が炭素を吸収しているという話がある。そして、これを読んでいるひとびとも含めて多くの人たちがこの吸収について多くの勘違いをしているのではないだろうか。
森林は炭素を吸収はしている。しかし、それは分解されているということを意味しているのではない。あくまでも木は木になることによって炭素を蓄えているにしかすぎない。燃える、枯れる、成長するごとに樹皮を落とす、葉を落とす、当たり前の自然現象の中で森林は多くの炭素を出している。森林が蓄える炭素の量と、森林が自然に出している炭素は拮抗しているのであり、森林がどれほどあろうと炭素の全体量はかわらないのである。もちろん、太陽発電かなにかで得られた電力で宇宙空間に木を捨てるというようなことをすれば、炭素は減るだろう。アマゾンの木をすべてたたっきって宇宙空間に捨てる。そして、新たに植林をして、育ったら、また宇宙空間に捨てる。そういうことを繰り返しすれば炭素は減る。木が地球上にあるかぎり、炭素が減ることなどはありえないことだ。地球上で異常なまでに炭素が増えたのは、地中に蓄えられていた石油を掘り返して、大気にばらまいたことに原因がある。こういうことは、わかりきったことであるはずなのに、二酸化炭素排出量取引などという、世界はとんでもない事をおもいつき、本末転倒したことをおこなっている。

森林を守ったところで二酸化炭素などは減らないのである

森林の保全とは生物体系を守ること。そして砂漠化防止、海洋に流れ込むミネラルの保全などである。

象徴としてなにかを担ぎ出すとき、なにを解決すべきかの焦点がにごってしまう。
これはそれを端的に示している一例だと思う。

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