2008-12

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死刑とはなんだろうか 6

「可塑される」可塑という言葉はあまり耳にしない言葉かもしれないけれど、語彙としては何度もくりかえされているうちに常態化するということである。もっと砕いていえば、金属の板で何度も繰り返しておりまげているうちに、折り曲げ続けてきた部分に癖がつくようなものといってもいいだろう。人間の記憶と行動もそれに近しい作用をおこなっている。職人さんなどが何度も手作業をおこなっているうちに目をつぶってもできるようになるというやつだ。人間は何度も繰り返しておこなう作業に関しては可塑という方法によって、あたあかも自動機械が行うかのように作業ができるようになる。なんどもやっているうちに手が勝手に動いてしまうような錯覚があるけれど、これは手が勝手に動いているわけではない、脳が指令を出して手を動かしている。経験し、記憶が作業と結び続いているだけであり、無意識ではない。性衝動やほかの動物的な本能の部分、つまり脳の旧皮質で作業されているのではなく、新皮質でおこなわれているのである。

この新皮質でおこなわる精神作用は理性とも呼ばれている。一般的なとり方としてこの理性という言葉は善性や徳性をさす印象が強い。しかし、人類が過疎化してきたこの新皮質の作用が必ずしも善性や徳性をさすかというと大いに疑問だ。多くの動物が行わない同族殺しや共食いを人をするようになったのだろうか。飢えるという精神作用に対して、もっとも手っ取り早い共食いという精神機能は他の動物にもある。また、ライオンのように生殖のために他のオスの子供を殺すという本能もある。だけれども、この精神作用を可塑化するために儀式化し教育し、貧しさも生殖にも関連しない日常で定期的に行っているのは人間だけである。この徹底しているといってもいいほどの可塑化は、まるで人間の本性はこうしたもんもとは別、もっといえば人間の本性や本能と呼ばれるものは別にあり、それに抗うためではないかと思うほどに繰り返しおこなっているのではないかと邪推したくもなってしまう。
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netbookのすがた eeePC901X

ネットブックやミニpcとよばれる小さなパソコンが家電量販店でもパソコン売り上げの三割を占めるという状態になってきているそうだ。新しい物好きの林檎親方(筆者)のことですので、それはもう、販売まもなく手に入れました。asusから発売されたPC、初期モデルではなく、その地位を固めたeeepc901xというモデルです。
はっきりと購入日は覚えていないのだけれど、9月ころだったと思う。家には自作の強烈なデスクトップや個性豊かなマックなどをそろえているためにこのネットブックというものは非常にか弱い存在に見えました。早く起動すること以外はなにもとりえがない。そんな印象でしばらくつかっていました。

ところが、はっと気がつくとこの901を使っていることが多いんですよね。
かばんの中にいれっぱなしで時々、かばんの中から取り出して公衆無線LANや携帯をモデムにしてネットに接続している。普段からスマートフォンなどを持ち歩いているのだし、ipodtouchももっているのだから、そっちで接続してみればいいんでしょうけれども、どういうわけかかばんの中から取り出してつかっている。なにに使っているかといえば、前述したような端末では対応できない、ネットディスクやネット同期(DROPBOXのようなもの)を使っている。自宅で作った資料や、その場でつくったログなどをそうしたネットサービスで自宅のメインマシンに送り込んでしまう。もちろん、キーボードは狭いし、速度も遅い、けれども空いた時間に打ち込めるっていうのは時間を非常に効率的に使える。たった、数行の入力のために家や会社にもどりメインマシンをよいしょっとばかり電源スイッチをこして、起動時間をまって、アプリを起こして、必要な数行を入力する。いままではそういうことが当たり前だったし、そういう作業に関して負担は感じていなかったんだけれども、一旦、移動時間や休憩時間などにそうしたことをしてしまうと、もともとはだらしない人間だから、そっちのほうにながれてしまう。もちろん、家でも「たった数行だから、ネットブックで良いか」てなことも多い。空き時間にネットブックをたちあげて、数行を打ち込む、そしてネットディスクかネットシンクロサービスを利用する。すると、メインマシンには自動的にそうしたものがはいっている。こうしたことはネット環境とネット上のサービス、そして、ネットブックのようにそうしたものをライトに使える端末があるからこそできることだと思う。
また、このタフさと大バッテリーを組み込んだ一キロのノートブックは新聞のようにもつかえる。多分、ネットブックを持っている多くの人の家庭で見られる傾向だろうと思うけども、食事をしながら横目でスポーツサイトやネット新聞を読む。あるいは、テレビなどを家族でみていなかったら、itunesのようなソフトを使ってニュースやビデオをダウンロードして、それを見たり聞いたりする。何事にも気軽にネットを使える。それがネットブックの姿だと思う。

HHKB覚えておきたいショートカット

非常に打鍵しやすいHHKBですけれども、ショートカットをしっかりとおぼえておくと利便性は非常にあがります。以下に基本的なものを書き出しておきます。

Windows標準
CTRL+C 選択範囲をコピーします
CTRL+X 選択範囲を切り取ります(選択範囲をコピーして選択範囲を削除する)
CTRL+V コピーしたものをはりつけます
CTRL+A すべてを選択します
CTRL+Z 元に戻します
CTRL+Y やり直します
CTRL+N 新規
CTRL+O 開く(“ファイルを開く”が開く)
CTRL+S 上書き保存

文章編集時

CTRL+U ひらがな変換
CTRL+I 全角カナ変換
CTRL+O 半角カナ変換
CTRL+P 全角英数
Fn+F10 半角英数
変換キー 再変換
無変換キー 全角カナ 半角カナ かなに変換

Shift+無変換キー 全角英数ならびに半角英数
 

HHKBで作動確認をしているWinキーとの組み合わせショートカット

Fn+Win+E マイコンピューターをエクスプローラーで開く
   <エクスプローラー内での操作>
   Tab 左右枠ならびにドロップダウンメニューを移動する
   矢印カーソル 指定方向に移動する
   Shift+矢印キー 連続して複数ファイルを選択する
   Fn+Del 指定したフォルダーやファイルを削除
Fn+Win+M 開いている窓を最小化
Fn+Win+M+Shift 最小化されているすべての窓を開く
ポイント:Shiftキーを押して逆の効果を出す場合が非常に多いです。

ソマリア沖の海賊対策について

Pirates.jpg


ソマリア沖の海賊対策に多くの軍艦が出ているようであるけれども、これは軍事的なプレゼンスを示すことを目的としていると考えるのが妥当であろう。ベトナム戦争後期、米軍が苦しんだのは洋上における水上ゲリラもしくは海賊たちの民間船なへの攻撃であった。時として上陸しての地上戦までおこなったのであるけれども、それがとまることはなかった。多くの船舶が往来する海域においてレーダーにも映らない波間に隠れる小船を相手にする。それも臨検をしなければ、それが武装しているのか、どうかさえわからない。また、追い詰めても大型艦の入れないような浅瀬に逃げたり、船を捨てて陸上に遁走してしまう。海賊狩りとは非常に難しいミッションであり、国際協調で強い立場で臨む(取引に応じないなど)あるいは職を失い仕方なしに海賊をしている人間のために仕事を与えるなどの方法で望むしかないだろう。
どちらにせよ、あの海域で海賊などがはびこれば、もっともダメージをうけるのは海賊そのものであろう、いくら優れた漁域であり、交通の要衝であってもこのままだと、保険をはじめとしたリスクマネージメントが高騰し、あの海域に立ち入る艦船は少なくなってしまうだろう。現状では各国があいてにしてくれている状態であるから、まだいいのだけれども、このままだと相手にもされない常態になってしまうだろう。

それにしても日本の対応は不細工である。自衛隊と海上保安庁との綱引きを延々としている。自衛隊には会場治安のノウハウがない。海上保安庁には艦船や通信連携をはじめとしたノウハウがない。だったら海上保安官を自衛隊の艦艇にのせてしまえばいいのにと思ってしまう。実際にアメリカ海軍などでは公海上での臨検などは沿岸警備隊の人間にまかせるために海軍の艦船に乗艦させているではないか。

死刑とはなんだろうか 5

人に死を与えても守りたい・・・というようりも、僕たちが守っている社会とは一体なんだろうか、死刑そのものについて考える前に死を与える死刑とは対義になる生まれるということと社会に関して考えてみよう。

脊椎動物の全能力の中で食料を得るという事柄と並ぶ、もっとも重要な機能の一つは「春」を知るという機能である。遺伝子に組み込まれている体内時計、それに周光性とよばれる光を感知して、陽が出ている時間と夜の時間を対比して季節を知る能力、これは目が奪われるようなことがあっても、脳の光を感じる機関が代行して季節を知らせることができるほどに強烈な機能である。春を知る。そして春に交配を行い、子供を育てる時期を捕食しうる動物が多くなる夏や食べられる植物が多い実りの秋へと調節をおこなう。つまり、春を知る能力とは脊椎動物にとっては発情期であるにほかならない。古代から恋の歌は春をイメージさせることが多いが、それは人間の動物としての機能が人が春に恋をするように仕組まれているからに他ならない。これは他の動物と同じく、人にも発情期が存在するということに他ならない。

しかし、人間は一年中、発情期のような状態である。受精を確実におこなえる確率が低いとはいえ、これほど交配を一年中している動物も少ないだろうとおもうほどである。また、妊娠期間も長く、よほどな幸運に恵まれない限り乳房の数よりも子供を多く生むわけでもなく、多産であるともいえない。

この動物界では異例の発情期を持ち、人間はどのようなメリットがあるのだろうか?
まずは、そこから考えていこう。

春に限定されることなく、交配をするようになった人間は一年中子供を生むようになった。これは一見すると獲物があふれる夏や実りの秋に子供を育てられないということを意味するのだけれど、人間はそれを農業という生産や貯蓄という経済行為によって、子供を育てる時期を自分たちで選択できるようになった。このことにより人口爆発が短期的に起こることを回避することができ、自然災害などからのリスクも非常に軽妙なものとなってきた。つまり集団によって可能である農業と貯蓄によって人は集団の安定を勝ち得た。

卵が先か、それとも鶏が先かの議論になってしまいそうなのだけれども、その相関関係は固定しているものだと思う。

また、そこでも間引きをはじめとした人工調節がおこなわれたのは疑いがないと思う。それも所属する社会からの要求に応じてという形になる。

死刑とはなんだろうか4

肉を分かつ人間、つまり富を再分配する人間であるこの人物が首長の原初となる。そして、これが時代を重ねるごとに社会そのものが大きくなり、社会システムに流通と家族という単位がうまれたとき、首長は肉を切り分ける必然性はすくなくなった。けれども、自己犠牲から発した生贄という儀式においてはその役割を担い続けることになる。自己犠牲の大切さ、そして社会を立脚させ続けるためにカリバニズムを儀式化した。いまでいう公教育というものと同義と捉えていいだろう。大層なピラミッドを労力を使って、それでも維持しなければならなかった。社会という器が自己犠牲を伴う必然がおおいころの話であるけれども、こうした儀式が死刑へとも発展していった。

神託を受けて名誉の元で神に召され、やがて庶民の胃袋に入る人間も、個人間のトラブルならびに反社会行為をもってして神に召されるものも神へと捧げられるのである。つまり神託によるものは自己犠牲の尊さ、そして犯罪者が生贄になるのは社会的教訓を生むための見せしめだった。(ちょい、脱線だけれども、この「召される」という言葉は食べ物を召し上がるというの語義と原義ではおなじであるというのは非常におもしろい。刀に口で構成されている。白川静先生の本あたりをあたると、もっと面白い話も出てきそうだ)


死刑とはなんだろうか1
死刑とはなんだろうか2
死刑とはなんだろうか3
死刑とはなんだろうか4

死刑とはなんだろうか 3

Palaeo2.jpg


なんらかの宗教儀式を担い続けた古典的な信仰において、祭りを取り仕切る人間が肉を切り分けたり、酒をついだりするという儀式をおこなうことが非常に多い。
肉を分けるもの、それは現代家庭においてはその一家の家長であるのは、よりおおきな権力構造をダウンサイジングしたときの現象だと考えても良いだろう。
原始において肉を切り分けて分配をおこなう。この行為に関して、その分配を担うものは決して、その獲物をとってきたものではなかったということは想像しやすいことだとおもう。獲物を獲ってきた本人が分配するのではなく、その集団の長となる人間が肉を切り分けていたのであろう。「長」自身がハンティングがうまく獲物を必ず持って帰って来、それゆえに肉分配権をもったと考えるのは難しい、それよりも、その集団に対して公平な分配、つまり集団において集団自身の利益になることを考慮することができるという資質というか役割を担える能力の有無が絶対的な条件だったと思われ、そうした人間が長となっていたのだろうと思う。
そうでなければ自分の好きなやつにだけ肉を与えて、嫌いな人間にはあたえない、若い女性に与えても妊婦には与えないというようなことをすれば、集団は一気に崩壊してしまうだろう。

死刑とはなんだろうか1
死刑とはなんだろうか2
死刑とはなんだろうか3
死刑とはなんだろうか4

死刑とはなんだろうか 2

bolonyok.jpg


上の画像はドレスデンコデックス マヤの絵文字で書かれた書物の写本


ドレスデン・コデックスという本がある。この本は十六世紀にアステカのカリバニズムと生贄についてナワル語で書かれた本である。原始から近代にまでの死刑についてのつながりというものははっきりとわからない部分がある、比較的近代までそのような風習を持っていた国家であったアステカのこうした文章は原始や古代を推察するのに非常に参考になると思う。
この本の一節に神のために生贄になる女性のことを賞賛した章があるが、少女は生贄台におくられるまで高貴さにつつまれて、荘厳な死を迎えると所がことこまかに描写してある。人々はその少女の心臓がえぐりだされるとき、涙を流して感動する。しかし、多くの遺跡で見られる生贄の姿の実際は違う。はっきりとわかるような形、つまり骨折や長期の服役や強制労働によるものだろとおもわれるカルシウム欠損や骨の変形などの形跡が見られる。こうした大多数をしめる生贄たちは、神託によってえらばれたのではなく、なんらかの罪を犯したために神に捧げられた人々だと考えられている。もちろん、このなんらかの刑の結果として生贄にされた人間も神託により選ばれた少女も最終的に同じ庶民の胃袋に入るのであるけれども。

そのどちらも捧げられれる対象は神なのである。ここで応報のための死刑と神への感謝の表意の死刑とが合致してくることになる。まぁ神様が最終的には人々の胃袋であるというのは原始から続くなごりといってもいいだろう。ここで思い出してほしいのだけれども、きれいごとが大好きな僕たち日本人も第二次世界大戦までカリバニズムをおこなっていたことをわすれてはいけない。1945年まで日本は間違いなく世界最大の首狩族であり、そこに美意識すらもっていた。神風特攻と称して多くの人が犠牲心を一にして無駄死をさせられ、それでもその犠牲心をもってして、いまだに涙する。これは他の多くの国々でも賞賛されることの多い行為である。


死刑とはなんだろうか1
死刑とはなんだろうか2
死刑とはなんだろうか3
死刑とはなんだろうか4

hhkb






HHKBが到着して、ほぼ二日が経過しようとしているが。このキーボードは打鍵力がそれなりに必要だということがわかった。こうした傾向は他のキーボードを打鍵したときに顕著となる。

また、このキーを打った後にほかのキーボードを打鍵したときなどには非常にミスタイプが多くなる傾向も確認できた。

ストロークの深さが打鍵ミスを減らす。これは僕にとっては新しい発見だった。また、打鍵中の僕の姿勢も非常に良いものとなっている。これはアーロンチェアのように人を矯正する要素を持っているといってもいいだろう。

しっかりとした打鍵するという潜在意識と姿勢が身についてしまうと、ストロークが短く、過度にソフトなタッチのキーボードなどを使用すると、ミスタイプを生じさせる傾向が生じてしまう。数日で数年間使っていたキーボードが使いにくくなったというわけだ。

死刑とはなんだろう? 1

execution.jpg



死刑というものは自殺のような自らが積極的に望む死ではない。他者が何らかの目的を持ってして他者にあたえる死である。原始において食料の争いやその他の固体の生態欲求からくる争いの結果にもたらされた死とも違う。なんらかの目的をもってしてなされるのが死刑というものである。おそらくその起源はカリバニズムにあるのだと思う。カリバニズムの歴史は古く。古代を超えてネアンデルタールやクロマニヨンの時代にもさかのぼるものである。獲物が取れなかったり、なんらかの気象変動のために食料採取が困難になったときにクロマニヨンやネアンデルタールはカリバニズムをおこなっていた。こうした食人に関する原始標本に見られる特徴は骨髄にいたるまでこそぎ落とすようにとられていることである。「無駄なくすべて」という精神からだろうとおもわれるけれど、これは時代を新たにするごとになんらかの儀式性が増してくる。顕花や石を規則的に配置し埋葬するなどしているのである。情緒や感情という面での進化が始まったのはおそらく言語機能が人の集団の群体化によって語彙を増やすことによって生まれた。この辺は彼らわれらの祖先の頭蓋標本の言語連合野周囲の比較計測をおこなえばはっきりとわかることであろうけれども、この言語連合野が情緒や感情などと強く相関をもちながら進化していったことは間違いないだろう。その集団の中で誰かを犠牲にして自分たちの命を永らえるということに対して苦痛をもつ心がうまれた。そして、その行為に対する
癒し経験の蓄積が言葉として後世に申し送られる。その結果の一つとして情緒や感情というものが進化してきたといってもいいだろう。つまり、集団のためになんらかの犠牲を払うとき原始の人々はそれを正当化するようになったのであろう。この犠牲に対するが言語的な継承が信仰が生成される際の要素の一つだと僕は考えている。
もちろんここに応報感情にかんする要素は含まれていない。

死刑とはなんだろうか1
死刑とはなんだろうか2
死刑とはなんだろうか3

自己責任さんはいずこに

多くの人がまるで口をそろえたかのように経済の悪化を口にしている。しかし、本当に体感しうるような不景気が差し迫り回避し得ない脅威として目前にあるようには思えない。たしかにメディアでは不景気にあえぐ中小企業などがフォーカスしつづけている。だが、多くの場合は報道などからくる印象であり、メディア先行の騒動のようなものではないかというような印象を僕は持ってしまっている。期間労働者への不当な扱いというものは今に始まったことではないし、ネットカフェ難民などのような問題は以前から問題提起されてきたわけである。以前からあった問題であり、今回のアメリカから端緒を発した経済問題を起因となる問題というものは実は非常に少ないのではないか、苦しんでいる人や貧しい人たちに対してみて見ぬふりをきめこんでいたのは世の中のほうではなかっただろうか、ひょっとしたらわが身にも迫るかも知れないという状況になって初めて世の中は騒ぎ出しているのである。それまで自己責任を明言していた与党の一部にいたるまで救済の必然性を訴えている。それまでならば期間労働者は切り捨てれてしかるべきであり、そういう選択肢をとったの自己責任ではないかといっていたのではないか。本質的に彼らは選挙に勝つという大前提のもとで発言をしているわけだから、こうした世間の恐怖心に迎合するのは当たり前であるのであるけれども、それを支持していた人間までもがセーフティネットなどという。まったく彼らの自己責任という主張はどこにいったのだろうか・・

我々は、なにを見直すべきなのか真剣に考えるべきときがきたのではないだろうか。

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