2017-04

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今日はなんの日。ギロチンの日

1792年の本日、フランス人内科医ジョゼフ・ギヨタンがギロチンを初めて使った日である。勘の良い人ならば年号を見れば、それがいったいうどういった時代なのかわかるだろう。
フランス革命まっただなかである。一日に百人、日によっては千人にものぼる人々が処刑されていた時代である。

もちろん、第一義にギロチンは処刑の効率を高めるために開発されたものである。つまり首切り職人が大ナタを振るうよりも、紐をひくだけで、すぱっと首を落とす方が効率が良いということだ。

古典時代の12表刑とちがい、ギロチン刑は単に死を結果として作り出すために存在した。永久に反革命勢力が、その影響力を行使できないようにするために死を監獄にしたということだ。

最初は水平だったギロチンの刃は、よりすみやかに断頭するために斜めに傾けるなどの改良もくわえられていった。

どんな人間にも同じ手法で同じ結果にいたるように行うことを原則としてギロチンは開発されていった。つまり、平等を原則としてそれが貴族であろうとも王党派の農民であろうが、同じであるということである。

ここに死による量刑は不可能という問題点が処刑にまつわる問題点としてあらわれてくることになった。
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死刑に関してのメモ

ローマ法の整備に伴い死刑というものは多様性を帯びてきた。それまでは、どちらかというと儀式的な意味合いや謀殺の類であったものが、それぞれに見合った刑というものが、考えられるようになってきた。
この時期の処刑種類は数百にも及んだ。
人をだましたものは衆人のまえで巨大なローラーにむすびつけ谷底に転がり落としたり。
政治犯にかんしては磔刑にするなどである。こうした流れがローマ法古典初期までつづき、その後に絶対君主制に移行したローマ法のもとでは刑が統合され始められた。つまり、ローマ法初期においては死刑の手段も量刑によって多岐を極めたということであり、後期においては為政者業務になったということを端的に表している。この際に選択されたのがねじ打ち(首の後ろからねじくぎを打ち込む処刑)であり、絞首刑であった。この二つの処刑は非常に効率的に死を作り出すためのものであった。また、同時に斬首などもあったが、これは後始末に非常に難儀したという執行官の伝記などがのこっている。

死刑とはなんだろうか10

死刑というものは人類が出現した時からあるというような誤解があるよう
に思われる。しかし、それは大きな間違いだろう。死刑とは法が生まれて
から、出現したものである。人工のものであり自然派生したものではない
ということはしっかりと念頭においておかなければならないだろう。ま
た、同時にそれが存続しているのも人工であるが故に人と法のかかわりの
中で維持されていると考えて良いだろう。

死刑とはなんだろうか 9

時効をなくすような要求が犯罪被害者の方からでているようである。

犯罪被害者の応報感情というものは理解してあまるものがある。また、応報によって、心の傷が癒える人々がいるのも当たり前のことであろう。しかし、もうこれ以上憎みたくないという感情を持つにいたった人の権利はどうなるのであろうか。死刑廃止運動において自らが被害者であるにも関わらず熱心に犯人たちの減刑を望み活動をしている人々がいる。また、内心において加害者の処刑を望まない人々もいる。

そうした人たちにとって加害者への応報は希望することではなく江戸期の仇討ちをもとめて諸国を何十年も放浪するのに等しい。
被害者や遺族のすべてが応報感情を持っていると考えてはいけないだろう。にも関わらず、まるで時代劇の仇討ちのようなコメントを求めるメディア。日本人の演劇感覚を端的に表しているのであろうけれども、自らが応報を法の場においておこないたいと心底おもっているのならばいいだろう。けれども、そうでない場合、いや、もっといえば役者が演劇を義務とするかのような感覚で、応報を義務としてせおってしまった被害者や遺族にとっては世間の声は大きな苦痛になるのではないだろうか。
ドイツなどでは、メディアが被害者や遺族の心情にたちいらないようにする法律があるという。こうしたものは法となる前にモラルとして感じ取ることができるからこそできたものだろうと思う。

日本はそうしたレベルにまで至っていない。また、本当に支援を求めている人にその手をのばしているともいえないだろう。

応報を行いたいという人もいて支援してほしいというひともいるだろう。しかし、誰でもいいから、そばに居てほしいというひともいるだろう。また、一家の支柱を犯罪でうしない生活の破綻におびえる人もいるだろうし、それらの感情を複雑に絡みあわせた人もいるだろう。被害者や遺族はすべて違うはずである。

仇討ちをすべての人が望んでいるわけではない。

記者たちが見ているのは被害者ではない。テレビの向こうにいる仇討ち劇を期待している視聴者である。

わすれてはいけないことがある。公判の上で被告が免罪を勝ち取ったとき、記者たちはなんと報道するのだろうか。
彼らは免罪であった被告の濡れ衣をこわだかに報道する。そして警察や検察を非難する。そのとき被害者や遺族は散々に煽られ、強い応報感情をもたされてしまっているのである。その気持ちのもって行き場はどこにいくのだろうか。

メディアというプロデューサーは残酷に主役を交替させるものだ。

死刑となんだろうか 7 神隠し事件より

hamlet0.jpg

画像は舞台ハムレットより

自分の性的な妄想から被害者をさらい、そのうで殺し、便所にばらばらにして流してしまうという事件の公判が進んでいる。ワイドショーなどで連日のように報道されているので、ご存知の方も多いかと思うが。人を殺した人間とは思えないほどに加害者は反省しているという話があちらこちらから聞かれる。

子供のころに負ったやけどからコンプレックスを持ち、自分はまともな方法では女性と交際できないと思い込んでいた。それくらいのことでコンプレックスを持ち人殺しに及んでしまうというのはあまりにも安直であり、同種の問題に大して明るく立ち向かっている火t人から比べると甘ったれもほどほどにしてほしいと思うのであるけれど、こうした事件も、やはり身の丈コミュニティのロストが大きな原因になっているのではないだろうかと個人的には所感している。

強い反省にいたっている。これは現状では確認せきないことだから、風聞に仮説の根拠をもとめることになり、非常に精度の低い話であることをまずは断っておく。

被害者のご遺体をばらばらにして便所に流す。そこまでして、罪に問われることを逃れようとしていた人間が、いまになってどうして、その罪を認めて、自らの死を望むようになったのだろうか。

報道によると、なによりも体面を重んじる人間だったようである。タクシーに乗ってもつりは受け取らず、逮捕前に被害者のご家族とすれちがっても「僕にできることがあればなんでもおっしゃってください」というようなことを言う人間である。被告の心情経過を分析する上において、彼のご遺族の方に語ったとされるこの言葉は彼の傾向を知る上でも重要な言葉だ。

おそらく、この言葉は彼の中では願望としても語られていたものである可能性が高い。自分が犯した罪であることは本人は十二分に認知していることなのであるけれども、自分の外面の部分が自分は犯人ではないという訴求をおこし、目の前でおこなわれる事件において、解決やご遺族の心を慰める主人公を演じたかったのであろう、逮捕当初尋問において確固たる掌紋という仏性を見せられるまで、激しく自分の反抗ではないと警察などに激しく抗議したようである。この時点においても彼は自分をなんらかの演劇の中心人物を演じようとしていた。

彼の目前で流れる事象、そのすべては幻影のようなものであり、自分は演じる人間として舞台にたっている感覚もあったのであろう。もちろん、底流には自分が捕まりたくないというエゴイスティックな心象に基づいているのは間違いない。

強姦して、性的な奴隷にして、自分の恋人にする。幼児性まるだしの犯罪である。この計画こそ、彼の体面の裏側に潜む衝動である。こうした性的な奴隷というようなものを空想することは性徴期に妄想することは男性にはよくあることなのだけれど、そうしたものは、成長し、多く恩人とのかかわりの中で昇華していき、現実的なものにおちついていくものである。ところが、彼はそうはならなかった。ただ、こうした妄想を膨らましていき、現実世界を妄想で侵犯させてしまった。

多くの男性は、こうした衝動をもちながらも、それを現実の領域で実行することはない。
友人たちとつまらないエロ話に興じたりしながら、妄想をふくらますけれども、実際に好意を寄せる女性がでてきて、そうした女性とどうにかして交際しようと努力する。そのなかで自分の気持ちや相手の気持ちを照らし合わせながら現実の交際に発展していく。

ところが、この被告はいきなり性奴隷なのである。いや、いきなりではない、思春期からそだててきて、現実を審判する衝動にまでしてしまったのではないか。

身の回りに馬鹿話として、こうした妄想を話す相手がいなかった。妄想とは衝動の引き金となるものであり、行動を定義づける仮想実験を担っている部分だといっていいだろう。この仮想実験が検証されることなく一人歩きを始めると衝動などの行動領域に影響を与えてしまう。この成長のための仮想実験であるものを検証するのが身の回りにあるコミュニティである。

彼にはそうしたものがなかった。外面的に付き合う人間はいたのであろうけれど、彼の妄想の中に立ち入ってまで来る人間はいなかったのだろう。唯一踏み込めたのは彼を尋問した警官であろう。

こうした犯罪を犯した人間が警官に真実をつきつけられ自分の妄想を語り、自供にいたるという例がおおくいるが、そのほとんどが身の回りコミュニティがなんらかの原因で損壊している人間が多いように思う。

その罪を自覚したのも現実世界からの彼の心象世界に立ち入ることができたからであろう。結果、彼は大きな反省を持つにいたっている(報道のみの情報による仮設)


犯人が死刑を望む、検察も死刑を望む、そして被害者も死刑を望む。星嶋被告に関しては遺族や加害者という当事者が死刑を望んでいるという不思議な状態になっている。だったら、死刑にしてもいいのじゃないかなというのが世論になるのだろう。

しかし、応報を目的とするならば、加害者は自分の望まない状態に置かれることによって、その罪が昇華されることになるはずである。ところが、この加害者は死刑になることを望んでいるのである。自らの命を低いものとして、そのうえでそれとバーターする形で被害者のなくなった命と引き換えにしようというスキムになる。

ここでは被害者の命と加害者の命がイコールで関連付けられる等式がおかれるということに注目しなければならないだろう。そのうえで、加害者に関しては死を望んでいる、被害者は望みもしなかったのにもかかわらず殺されたという加重が考慮されていないのではないか。

もともと、死刑によって応報がかなうかどうかなどということは考えるだけ無駄なことであるようにも思える。

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